【1】正統系譜
始祖 林崎甚介源重信
(1542〜1617)天
文11年生誕、元和3年没。墓碑は川越市連雀町7−1連馨寺境内に記念碑が残る。
幼名は浅野民治丸。1559年(永録2年)、満十
七歳で元服し改名、永録4年満十九歳の時、故実伊勢流指南であった父数馬の仇、坂上主膳を討ち果
した。
二代 田宮平兵衛業正
上州上田村、始祖林崎の長
柄の業と気構は田宮により発展し伝承された。徳川家康に見出され、息子長勝は元和5年、紀州徳川
に仕える。
三代 長野無楽斎入道
上州箕輪城主長野信濃守の
一族、武田氏に滅され出羽の国で田宮の弟子と成る。彦根城主井伊直政に仕え家老職にまで出世した。
(十代林安太夫政詡伝書)
四代 百々軍兵衛尉光重
金五中納言(小早川秀
秋?)に仕えたとある。
(十
代林安太夫政詡伝書)
五代 蜂川正左衛門宗続
豊臣秀吉家臣 (十代林安太夫政詡伝書)
六代 萬野団右衛門信貞
豊臣秀吉家臣、後 江戸に移転。(十代林安太夫政詡伝書)
七代 長谷川主税助英信
(1598〜1719)慶
長3年讃岐にて生誕、生駒藩武士であったが1641年(寛永十七年)讃岐生駒騒動により江戸で浪人となる。
享保4年江戸にて逝去、流名を「無雙直伝英信流」と命名。
居合中興之祖にして、始祖林崎の業から中伝立膝(伊勢流)を考案、直伝柔術105本を編纂。
1660年(万治3年)土佐三代藩主御台所役であった林五左衛門を江戸に招き、林崎神伝夢想流居合を伝授した。
八代 荒井勢哲清信
生涯浪人であった。土佐四
代藩主料理人頭林五左衛門の伊勢流礼法を元に考案した初伝十本の業に協力。また九代林六太夫守政に宗家を禅譲。
土佐元祖 林五左衛門政良
(?〜1675)生年不
詳。伊勢流礼法を元に初伝業十本を考案、これは破門人傍系山川に依って捏造された大森流と長く誤解されたもの。土佐三代藩主「御意江戸出立」、1660年
(万治3年)伊勢兵庫貞益と長谷川英信に弟子入り、土佐四代藩主料理人頭。
延宝3年4月に江戸で逝去。
九代 林六太夫守政
(?〜1732)生年不
詳。1675年(延宝3年)5月に林家跡目を相続、土
佐六代藩主山内豊隆の時江戸勤番となり、1719年(享保4年)七代英信の死を看取った。江戸上屋敷料理人頭取:伊勢流指南180石。享保17年に江戸で
逝去。
十代 林安太夫政詡
(?〜1778)生年不
詳。土佐八代藩主山内豊敷の代に、1730年(享保15年)名代江戸勤番とな
り、1732年(享保17年)九代養子娘婿として林家の跡目を相続。1769年(明和6年)に「老齢衰弱倅代勤」。1778年(安永7年)7月14
日、江戸にて逝去。
十一代 大黒元右衛門清勝
(?〜1790)生年不
詳。1742年(寛保2年)2月に跡目を相続。1759年(宝暦9年)江戸上屋敷居合術指南となる。1782年(天明2年)大目付、同5年3月病により御
役御免。1790年(寛政2年)2月に病死。
十二代 林益之丞政誠
(1773〜1815)安
永2年生誕。十
代の孫であり、1776年(安永5年)養子跡目相続。土佐九代藩主山内豊雍の代、1787年()8月山奉行となり宗家を譲り受ける。1801年(享和元
年)江戸上屋敷御用兼勤、同2年江戸軍備御用。「註1808年(文化5年)土佐十一代藩主山内豊興の代、江戸軍備御用病指許」。
1815年(文化12年)12月、42歳で逝去。この葬儀の混乱に乗じて傍系山川が長谷川居合伝
書を盗み出した。
十五代の伯父、谷村(生駒)道之丞正脩(1855年安政2年9月6日病死)は門弟である。
十三代 依田萬蔵敬勝
(?〜1809)生年不
祥。1787年(天明7年)3月養子として跡目相続、1795年(寛政7年)二の丸御弘鋪役途中江戸御弘鋪役、文化5年藤波神社建立寄進、1809年(文化6年)1月13日に病死、宗家在位は22年に及ぶ。「註、傍系山川文化5年9月養子縁組」
十四代 林彌太夫政敬
(?〜1831)生死不
祥。1785年(天明5年)5月林家十二代養子となり、1815年(文化13年)2月に跡目を相続。1831年(天保2年)7月18日、二男林八郎次政継
承長谷川居合術心得数年、死亡原因不明。傍系山川(前名錠八)を弟子とした。
門弟に松井兵衛誼正(1853
年(嘉永6年)病死。子息次平正治は1862年(文久3年)3月に江戸上屋敷居合術導役となっている。)、谷村(生駒)道之丞正脩(前述)がいる。
十五代 谷村亀之丞自雄
生没年不詳。1845年
(弘化2年)、土佐十三代藩主山内豊熈に免許皆伝を伝授。1844年(天保15年)1月9日長谷川居合心掛け江戸勤番となった。嫡子尋吉自脩も1862年
(文久2年)6月に居合術導役となっている。
・・・・同年4月5日、土佐勤皇党によって吉田東洋が暗殺されている。
十六代 五藤孫兵衛政亭
(?〜1897)明治30
年没。
十七代 大江正路子敬
(1852〜1927)嘉
永5年10月10日生、昭和2年4月20日逝去、享年76歳。
幼少より高知の日根辦治に剣道、藩立文武館で居合、軍太鼓を学び、十五歳で剣道導役となり明治元年鳥羽伏見に出陣、2月泉州堺の土佐守備隊屠腹の場に立会
う。
正統正伝居合を引継ぎ、傍系下村も引き継ぐ(?)。大正9年特別御前試合、13年居合術範士授与、新潟、岡山、兵庫に居合術講師として招聘されている。十
八代穂岐山、十九代福井が助手となり、土佐居合の煩雑さを整理整頓した。
十八代 穂岐山浪雄
(1891〜1935)明
治24年土佐にて生誕。陸軍中尉であり、昭和10年逝去、享年45歳。大正10年に十八代宗家となった。
昭和2年。大阪の河野稔に招聘され、真剣居合道を初めて大阪へ、後の二十代宗家河野稔百錬を弟子とした。
十九代 福井春政鉄骨
(1884〜1971)明
治17年高知にて生誕。昭和46年2月18日逝去。柔道教師7段、居合術範士。十八代の意志を継ぎ、大阪から更に中国へも出張した。
二十代 河野稔百錬
(1898〜1975)明
治31年2月19日北九州にて生誕。昭和50年逝去。死亡前後に居合神社無断額縁事件(中山博道偽伝16代額縁)
昭和2年十八代に入門、6年に八重垣会を発足。13年大日本武徳会居合術錬士、
14年大日本武徳会
大阪当局の要請により「大日本抜刀法」を考案(海軍兵学校野外教練用)。15年達士、21年範士、25年4月に正統正伝二十代宗家を紹統。29年5月全日
本居合道連盟
結成。このとき、神道無念流・大森流の平井阿字斎が入門した、
「註 無双直伝英信流居合兵法叢書:昭和30年2月」・・・日本古武道のバイブ
ルである。
二十一代 平井阿字斎
大日本居合道連盟を設立。
同 福井虎雄
昭和50年に全日本居合道
連盟と大日本居合道連盟が分裂。さらに全日本居合道連盟から日本居合道連盟(九州)が分裂している。
二十二人目
若浦次郎
全日本居合道連盟から大日
本居合道連盟へ移籍、その後中山博道神伝流15代説により独立。
正伝宗範10段、日本居合柔術連盟理事長。易水館長。
伊勢流礼法と直伝居合の関係、大森流の誤認を発掘。